たくさんの自分と道徳心

気持ち

皆さんは、道徳心というと、どのようなものを想像されますか?

 

私は昭和生まれですが、当時の道徳の授業では、

『困っている人を助けよう』

『いじめはNOと言いましょう』

といったような内容の授業をしていたのを覚えています。

でも、実際に道徳の授業と同じような行動をとって、人間関係が上手くいった記憶はありません。

授業で良いとされることは、全く現実では受け入れられないなという印象でした。

 

先日私がYouTubeを見ていましたら、

松下幸之助さんの肉声動画がありました。

道徳についてでしたが、とても素敵なお話でしたので、

そのお話を少ししてみたいと思います。

道徳というものは、実利に結び付くもんである

”道徳とは、実利に結び付くもんである”

そうおっしゃっていました。

 

 

「道徳」というものを考えたときに、松下幸之助さんは

『何だか損をして、人を助けるようなこと』

『自分にとって不利益なことだけども、立派なこと』

だという解釈だったけれど、そんなものではなかったとおっしゃっていました。

 

道徳というものは、実利に基づくもの、言い換えると繁栄に基づくものである

 

『道徳というものが、原則において実利に立つということ。そこに道徳の尊さがある』

私は、この言葉を聞いて衝撃を受けました。

なんか、少し救われたような気がしたんです。

道徳とはなんだろう-私の解釈-

 

周りにいる人のことを可哀想だと思い、一方的に人の損をもらってばかりの人は道徳心があるとは言わないのですね。

 

損をもらった後には、【実利】、現実的にその人も利益が生まれないといけないと解釈しました。

 

例えば、人の損をもらうことを仕事とし、対価をしてお金をもらうとWin-Winになります。

でも、いつもお人好しで人の損ばかりもらっているのであれば、それは違うということです。

 

とっても安い飲食店があったとしましょう。

安いお店は、とてもお客さんにとってはお得で良いことです。

でも、そのお店を営んでいるご夫婦がとても優しい方で、低価格での提供をしていても、そのご夫婦の生活がままならないほどの価格設定だったら・・・

これは道徳的とは言えません。

 

不安な自分、

自信のない自分、

被害者ぶっている自分、

すぐ人に同情する自分、

甘えている自分、

人の評価を気にする自分・・・

 

たくさんの自分が自分の中にはいます。

 

何かを決定するときに、例えば不安な自分が出てきてしまうと、自分にとって最善な選択はできませんよね。

甘える自分が出てくると、責任逃れをしようとするかもしれません。

人の評価を気にする自分が出てくると、人が怖くなり動けなくなるかもしれません。

 

では、何を基準にしますか?

 

気持ちではなく、思いを基準にします。

思いは何ですか?

なぜ、飲食店をしようと思ったのか?です。

しっかり自分のお店を運営する目的を常に見ていかなければいけません。

 

 

私も、このお話を聞いてからいつも考えるようにしています。

様々な物事の決定事項を、道徳的に決めれているのかということです。

自分に都合のいいように決めてしまっていないかどうか、または自分自身を蔑ろにして相手を敬いすぎていないか、を振り返っています。

私というものは、たくさんたくさん気持ちが出てくるものですから、その気持ちに沿って進んでしまうと、少しずつ道を間違っていたりもしちゃうんです。

 

そして、たくさん考えて出した答えであれば、

もし誰かから『それ、道徳的じゃないよ』といわれても、

しっかりした答えを相手に渡すことができるからです。

そのように一歩ずつ道徳的に進んだ先に、繁栄というものがあるのだと、そう思っています。

目的を見失わない

私は、何か決めるときに、この決めるべき物事に対しての目的は何か?

というものを、見失わないように心がけています。

人は、様々な気持ちが壁になって、間違った判断をしてしまうことがあるからです。

 

 

落としどころを、じーっと見ています。

松下幸之助さんの、道徳は実利に結び付くものであってほしいといった思いを、大切に自分の中にも持っておこうと思っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

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